MSフライトシミュレータ用機体データ
復活!日本航空 DC−7C (City of SanFlancisco 1958)
JALがようやく国際航空輸送に参入した当時の花形旅客機が
ダグラスDC−7C。もとをたどれば第2時大戦中に初飛行した
DC−4で、これを与圧客室としたのがDC−6。そしてDC−
6をストレッチし、パワーアップしたのが「最後のレシプロ機」
といわれたDC−7。
1956年当時、JALはようやく飛び始めた国際線での競争
力維持のため、DC−8を導入するまでの「つなぎ」として新型
機導入を迫られていた。候補はDC−7CとロッキードL−16
49スターライナー(L−1049Gスーパーコンステレーショ
ンの発展型)だったが、JALは既にDC−4(12機)とDC
−6(10機)を導入していたこともあり、DC−7Cに決定し
た。
1番機のJA−6301(City of SanFrancisco)は1957年
12月に到着。国内披露飛行などの後、1958年2月から東京
−サンフランシスコ線に就航した。同年4月までに当初発注の4
機がそろい、週7便のうち4便をDC−7C、3便をDC−6B
というローテーションが完成した。特に7Cは、従来の6Bのよ
うにウエーク島への寄港が不要となり、太平洋横断実飛行時間は
冬19時間、夏21時間とおよそ4時間半短縮した。
しかし、この当時はまだ日本のエアラインへの知名度が低く、
日本航空社史によると「カミカゼパイロット」への不安を解消す
るため、苦肉の宣伝として「アメリカの飛行機、アメリカのパイ
ロット、日本のサービス」を打ち出したという。それでもひどい
ときは乗客が「アメリカ人の女性1人とその子どもで、合計1・
5人」などというありさまだったという。
「日本のサービス」を強調したDC−7Cの機内装飾は異色で
、特製織物のシート、障子入りのラウンジ、トイレの天井はスギ
板張り、バルクヘッドは日本橋の銘木店から取り寄せた総柾目の
キリ板などだったといわれる。
JALはDC−7Cを延べ5機導入(4機中1機をSASの7
Cと交換)したが、1960年7月にはDC−8−30の1番機
、JA−8001(FUJI) が登場、わずか2年半で主力機の座を
降りた。その後、国内線や貨物機として使われたが、1965年
に全機が売却された。